簡斎は、文化5年(1808)1月15日里で生まれ,名は敏昌、号は簡斎でした。尾張藩の和算学、関流の大家、永田有功について算術を専攻し、永田敏昌と改姓。尾張簡斎と号して数種の著書を出した。
彼は塾を開き算術や漢籍をに教えていたが、明治6年小学校令が発布されると、福束村謹節小学校で、算術を教えた。その時の教科書として使用されたのが、福束小学校蔵の「簡斎算艸」七巻、算法二十一問、側内算法中算法一巻等といわれる。
明治8年地租改正の際、福束地区では簡斎の指導による新しい測量法で土地測量をし、1回で官の検査に合格した。そのため近隣の村々から測量法の伝授を委嘱され、大いに便益を与えたと伝えられています。
やがて、里の兄徳左衛門の死去により、郷里の福束村に帰り跡を継ぎ、森島徳左衛門と再び改名し、以後は簡斎と号しました。
なお、簡斎の著作は以下のとおりです。
帝国学士院 図書館蔵書
・簡斎算艸
・簡斎算艸(6益)
・簡斎社中算艸
・算法簡斎録
・三友軒三艸
・幽斉算約(3冊)階
・梯算法解
・今上問答集
・大須観音堂懇額尾州
・城南大斐閣掲題解
福束小学校蔵書
・簡斎算艸(7益)
・簡斎算艸附録解
・算法簡斎録
・簡斎社中算約
・幽斉算約(3冊)
ところで、和算には特異な風習として『算額』の奉納がある。この算額の出題者として、森島簡斎の門弟が6人も掲げている。
そのうち1問が上記のものです。
算額とは数学の絵馬のことで、神社や仏閣に掲げられた数学の問題とその答えと術(計算方法)をかいた額のこと。算額奉納の理由は
1. 自分の会心の問題を解いて感謝の気持ちを表す
2. 人の集まる場所で、人に知らせる掲示板となり研究発表とする
3. 自己の学力を誇示して流派の勢力を示す
4. 記念として掲げる(例、一冊の本を勉強して修了した。門人が習った先生の米寿を祝福する等)
流派は関流のもので、森島簡斎編「簡斎社中算艸」には岐阜県のものが5問題あるが、大須観音や熱田神宮にも掲げている。
簡斎の門弟の孫、渡辺千歳が濃飛史艸72号に寄稿した「和算の大家森島簡斎について」によると、高木重之著『岐阜県の算額の解説』の中で、岐阜県の和算家年譜があり、簡斎は13名の内の1人に記されている。
平成8年7月20日作成の系図で子孫は、子供は3人・孫は8人・ひ孫は45人、子孫は現在各地に居住している。
簡斎が病で床につくと、高弟の森嶋、川瀬、河合らを呼んで、ねんごろに数学の原理を伝え、危篤に及んで、はじめて免状を与えたので、人々はその深慮に感服しました。
明治13年2月28日享年73歳で亡くなったが、没後の明治35年9月、里・福束・南波・中郷・中郷新田・福束新田の門弟有志が、撰文を藤圓曦氏に、篆額を南條文雄氏に依頼し、頌徳碑を益法寺に建て、師恩を不朽に伝えています。
頌徳碑がある益法寺は、輪中文化財(信仰)の中で紹介してます。
場所 | 輪之内町里738 |
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連絡先 |
℡ 0584-69-2648 |
所有者 | |
製作年代 | 文化5年(1808)1月15日~明治13年(1880)年2月28日 享年73 |
撮影日 | 2011年2月23日 | 経度 | 35.3024502 |
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調査年月日 | 2005年3月31日 | 緯度 | 136.6359544 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。