伊藤伝右衛門は西条村の庄屋西松権兵衛の次男として生まれ、17歳のときに、大垣藩士伊藤作之丞正昭の養子となりました。
27歳で家督を継ぎ、伊藤家四代として伝右衛門政敦を襲名し、知行五十石を与えられます。大目付役に進み、郡奉行加役となり、郡奉行本役となり、天明2年(1782)には二十石加増され合わせて七十石となります。
大垣輪中の南部の全ての悪水が上手く処理できなくなり数年に一度しか満足な収穫ができないと言われていました。七代藩主戸田氏教は幕府に願って「鵜森伏越樋」の建設に着手することにしました。
この鵜森伏越樋は揖斐川の川底の下にトンネルをつくって揖斐川の水を排水させるというものです。揖斐川が二つに分かれた石堰川に石で堰を作ってそこに放流するというものでした。伝右衛門は伏越樋御用係を任ぜられ、工事を監督しました。
工事は天明3年(1783)から5年(1785)までの3年の月日をかけて完成。ところが、大水になると水が一向にひかず、揖斐川方面に激しく流れたため、伏せ込んだトンネルを洗い流してしまったので、工事をやり直すことになりました。
石堰川の堰の石を取り除き伏越樋が地上に出たところから、さらに4800余間排水路を南下させ、根古地の対岸で放流することにしました。
こうして天明5年(1785)完成。工事が完成した天明5年5月23日、伝右衛門は自宅において自刃します。伝右衛門は手柄をねたんだ者に、様々な迫害を受けました。
しかし、自刃の本当の理由は工事を公儀普請に組み込むために運動費として不正を非難されるのを覚悟の上、名主と自分の分を加えて七十両を調達していますが、それを幕府役人に遣わして着手したことも遺言に見られます。そのため、工事が成功しなかったことを機会に避難の的となったことの責任をとったとも考えられます。
この伏越樋は明治38年(1905)の三川分流工事の竣工によって不要になるまでの120年間その役目を果たしました。
明治41年に鵜森(塩喰)の白山比賣神社の境内に「殺身人民(人々の為に一身をささげる)」と刻まれた顕彰碑が建てられました。
また彼の墓碑は大垣の回向院と人気を避けるようにしてふるさとの楡俣に祀られています。
顕彰碑は、平成14年に横曽根町(258号線沿いの伏越樋近く)に移されました。
白山比賣神社の事は、輪中文化財(信仰)で紹介してます。
●参考文献:郷土の輝く先人 上巻
●資料提供者・協力者(敬称略):片野 知二
場所 | 大垣市横曽根 |
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連絡先 |
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製作年代 | 寛保元年(1741)~天明5年(1785)5月23日 享年43 |
撮影日 | 2011年11月15日 | 経度 | 35.29697055370772 |
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調査年月日 | 2011年11月24日 | 緯度 | 136.61393612623215 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。