輪中のために生涯を捧げた片野万右衛門は、文化6年2月1日五反郷の名家に生まれ、天保年間既に庄屋となり30余年、生涯を輪中の治水に尽くした功績はきわめて大きかった。
長良・揖斐の二大川は宝暦治水によって一応の小康を得たが大榑川洗堰の維持管理はなみたいていのことではなかった。利益輪中関係村が組合を設けてその維持にあたったが万右衛門は役員として、また庄屋として常にこれを心配し、私財を投じて堤防を補強し洗堰を修理してよく任務を全うした。
福束輪中は名だいの低湿地で上郷と下郷とは水利に利害相反したため、古くから井戸に制限を設けるなどしたが、水による争いが絶えなかった。万右衛門は株井戸の制を案出して、その運上金で水路を作り、悪水樋管を設けるなどして積年の紛争を解決した。なお外からの水害を守り、内の排水をよくするためには、福束輪中と三郷輪中の合併が是非必要であると東奔西走、ついに永年の懸案であった両輪中を合併させ新福束輪中を設定した。
なお水害の根絶のためには、河川の浚渫の必要を感じて、西濃の同志と謀って治水共同社を創設して自ら取締役となり、明治13年2月、松方内務卿に三川改修の必要を建白し、政府が招いたオランダ人技師デレーケの来岐の折は三川分流、大榑川締切りを陳情するなど積極的に活動した。明治20年政府は三川分流の工事に着手し32年ついに完成した。実に万右衛門等の熱意によるものである。
万右衛門は三川分流工事の着工も見ず明治18年6月18日歿した。享年75歳であった。万右衛門は既瀬藤城に学んで学識も高く、性質もきわめて温雅、挙動も端正であった。平素質素な生活であったが財をおしまず公共の仕事に注いだ。死語郷里の人々はその徳を慕って記念碑を大榑川の堤に建てた。今東大薮長良堤の小段に移されている。
『大槫川洗堰跡の碑』は、輪中文化財(遺構)・万右衛門の孫を人物『県文化財審議会委員を務めた郷土史家 片野温』で紹介してます。
参考文献:郷土の輝く先人
場所 | 輪之内町四郷 |
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連絡先 |
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製作年代 | 文化六(1809)年~ 享年75歳 |
撮影日 | 経度 | 35.284986349524885 | |
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調査年月日 | 緯度 | 136.64824962615967 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。