西松吟風は厚見郡鏡嶋村(現在の岐阜市)の上松禎助の子として生まれた。21歳の時、西松家へ婿入りする。
庄屋役の見習いとして、義父に学び、22歳で庄屋役を担うこととなった。庄屋役の遂行以上に、俳諧の宗匠として郷土が誇る人です。
大垣は芭蕉が四度訪れた土地で、芭蕉十哲の一人各務支考は美濃の国、山県郡北野の生まれ。蕉風を広めながら独自の俳風を生み出していった人で、美濃派は獅子門と呼ばれます。
江戸期も半ばを過ぎるとゆとりのある農民は、武士や町民に混じって俳諧をたしなむようになった。西松家でも故楽(吟風先代)は「濃陽輪之内」に
潔く まことに白し 花の先 などど載せています。
明治25年には隠居し、俳諧一筋に。明治32年(1899)4月美濃派二十一世の道統を嗣ぎ、「家佐久楽集」をその立机の記念に編みました。
明治33年11月に墨直式を行い「東山集」を。7月に京都永観堂に句碑を建立。34年春には、山県に獅子庵の二基を建立した。
吟風翁辞世の時、神経痛症で苦しい時に詠まれた句です。
右の手は あとかたもなし 涅槃像(ねはんぞう)
また、蕉門の宗匠として門弟の指導のために全国を歩きました。
参考文献:郷土の輝く先人 下巻
場所 | 輪之内町 |
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連絡先 |
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所有者 | |
製作年代 | 天保九年(1838)~明治36年(1903)2月27日 |
撮影日 | 2011年12月12日 | 経度 | 35.2851076 |
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調査年月日 | 緯度 | 136.6374353 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。