脇坂智證は、下大榑新田真宗大谷派正養寺第二十世住職、脇坂相諦の長男として誕生しました。
幼くして両親と死別し、苦労して育てられましたが、尾張中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学文学部で印度哲学を学びました。昭和六年に卒業し、帝國図書館の嘱託、同十二年には東京逓信局逓信講習所の教官として任じ、同十五年から高速期間工業株式会社の主事、後に庶務課長を務めました。昭和十九年東京での勤務を終え郷里へ帰った智證は、海津中学校の教諭として赴任しました。その後、仁木中学校長、輪之内中学校、登龍中学校長、同三十二年以後は、郡上、華陽など高校の定時制主事として歴任し、二十三年間の教員生活を勤め上げ、同四十二年に退職しました。
趣味は山登り、小型バイクでのツーリング、海外旅行の他に囲碁がありました。
又、世界平和に少しでも貢献できるならばとの願いから興味、関心のあったエスペラント(ポーランドの医者ザメンホフが考え出した人工的な国際共通語)の普及に尽力することをライフワークとしました。日本の内外で開催されるエスペラント大会には努めて参加しました。
昭和五十五年(1980)には横浜で、日本エスペラント大会が開かれました。その仏教分科会(JBLE)において創立五十周年記念事業としてエスペ語訳の「仏教聖典」を出版することが決定し、JBLEと仏教伝道教会によるエス訳総務委員会が発足しました。
「エスペラント語仏教聖典」が完成し、昭和五十八年(1983)初版が発行されました。
智證は、JBLEの理事を経て、昭和61年には理事長を務めました。
「大正十四年以来五十年間住職を務めたが、浄土真宗の教えが八十に手の届く齢になっても私には確信が得られず、甚だ遺憾である」と住職の立場も顧み、「歎異抄」などの輪読をしては、門信徒に仏の教えを取り次ぎました。
輪中文化の発展にも寄与しましたが、家族に「有り難う」と合掌し往生の素懐を遂げられました。
脇坂智證が住職をされて『正養寺』は、輪中文化財(信仰)の中で紹介されています。
参考文献:郷土の輝く先人 下巻
資料提供者・協力者(敬称略):脇坂 仁
場所 | 輪之内町下大榑新田11047 (正養寺) |
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連絡先 |
TEL:0584-69-3266 |
所有者 | 脇坂 仁 |
製作年代 | 明治40年(1907)3月18日~平成11年1月26日 享年92 |
撮影日 | 2011年11月25日 | 経度 | 35.2712452 |
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調査年月日 | 2011年11月25日 | 緯度 | 136.6423324 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。