杉山千和は大吉新田の山本源十郎の三男で、幼い頃から漢学・詩文を高須藩の儒者川内当々に学び、父から囲碁を教えられた。名古屋の伊藤松和に就き、十三歳にして囲碁初段を取得。
藩主氏庸の城に招かれ、囲碁や詩を作り、褒美に欄柯図の絵を賜りました。十四歳の時、藩主氏庸のお供で神戸村の杉山又四郎家に出かけ、優れた才気を見込まれ杉山家の娘婿となった。
又、神戸村の漢学者で画家である文教者 高橋杏村と親しくし、経史・詩文を学び、囲碁も研鑽し六段に昇段。私塾を開いて多くの門人をもち、著名な文人といわれた岡本黄石、小野湖山、依田学海等と付き合い新しい知識の吸収に努めました。
日吉神社のぼんぼりには、千和が詩を書き、杏村が絵を描いたすばらしい作品で今も見ることができます。
杉山千和の三男、三郊は、通称令吉といい、三郊は号です。
幼い頃から、父に漢字と書の教えを受け、その英才ぶりは父と同じく人々に知られていました。
十八歳の時、神戸村に玉成義校(神戸小学校前身)が創設されると、漢字、筆学の教師になりました。その後、大垣師範研修学校に学び、岐阜の学校に勤務しましたが、向学の志かたく、河野春庵と中山道を徒歩で上京し、川田甕江塾に入門した。
その後、警視庁に勤めたが、32歳の時職を辞し、アメリカミシガン州、アンナボーア大学に留学。帰国後外務省に勤務し、39歳の時陸奥宗光の秘書官となり、日清戦役後の講話条約などの話し合いに参加し、外交上の文書や条約文の草案作製に心をこめ当たりました。
また、一橋高等学校(一橋大学の前身)、早稲田大学の教授となり、30年余り漢学・詩文を担当し、手紙文の指導は最も得意とした授業だったといいます。
尚、父と同じく書道を究めた三郊は、東伏見宮の侍講に招かれたり岩倉具視など、多くの著名人の書道師範を努めています。
「心正しければ筆正し」を指導理念として、多くの教え導きました。
参考文献:郷土の輝く先人 上巻
場所 | 輪之内町大吉新田 |
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製作年代 | 杉山千和 文政4年(1821)~明治32年11月29日享年79 杉山三郊 安政2年(1855)7月~昭和20年3月12日 享年90 |
撮影日 | 2011年12月12日 | 経度 | 35.2700175 |
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調査年月日 | 緯度 | 136.6192435 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。