福束新田の東側にある了恩寺は、寬文10年3月3日(1670)の創建で、輪之内では了恩寺だけ、阿弥陀仏を本尊とする真宗本願寺派の末寺である。
開基釋了雲(俗名尾関善兵衛)が大阪の陣にて討死(元和元年5月7日)その子(尾関吉兵衛)が大阪から来て福束新田を開拓し、寺を建立した。善兵衛の法名が『釋了恩』。その名前をとって寺号を『了恩寺』とした。
現在の住職で10代目である。7代目住職(恵教)が残した過去帳によると、寬保元年(1741)本堂類焼。慶応4年(1868)水害により本堂・古文書流出。明治24年(1891)濃尾大地震で本堂・鐘付堂倒壊。25年本堂建立。昭和21年(1946)南海地震で本堂が倒れる。その後仮堂を建てて現在に至る。
6世の還到院釋諦了(尾関実行)は寺子屋教育に熱心で、当時17~18人の子を教えていたとある。(天保嘉永簡)
大東亜戦争の時、安永7年(1778)鋳造のつり鐘を供出した。
参考文献:輪之内町史・開けゆく輪之内・寺の『過去記』・昭和63年広報
場所 | 輪之内町福束新田41 |
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連絡先 |
TEL:0584-69-2392 |
所有者 | 住職 尾関 恵潤 |
製作年代 | 寬文10年3月3日(1670)創建 |
撮影日 | 2012年1月19日 | 経度 | 35.2901125 |
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調査年月日 | 緯度 | 136.6323469 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。