舛屋伊兵衛は宝暦治水工事の際、ただ一人人柱となった人物。
養老郡多良の生まれで、領主高木内膳の下人となり江戸神田紺屋町に住んでいたが、宝暦4年(1754)高木内膳が薩摩藩による治水工事の工事監督になり、伊兵衛も一緒に美濃に帰ってきた。
そこで、大榑川洗堰工事の淒惨な難工事を目撃した伊兵衛は、『これは水神の怒りによるものだ。人柱となってその怒りを鎮めよう。』と濁流に身を投じた。
薩摩藩は伊兵衛の死を無駄にすることなく、難工事を完成させた。
円楽寺の慈賢和尚は、伊兵衛の墓を円楽寺につくり供養した。死没年月日は、幕府にはばかり工事竣工の翌日(宝暦5年3月29日)になっている。
伊兵衛の顕彰碑は大垣の本堂寺にある。
伊兵衛の墓がある『円楽寺』は、輪中文化財(信仰)で紹介してます。
参考文敵:木曽川文庫
場所 | 輪之内町大藪 |
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連絡先 |
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所有者 | |
製作年代 | ~宝暦5年3月29日 |
撮影日 | 2012年2月16日 | 経度 | 35.29209739572262 |
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調査年月日 | 緯度 | 136.6616177558899 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。