体育教育に生涯を捧げた学者
加納冨美子
平成九年四月三日、各新聞紙の朝刊死亡欄に次のような記事が掲載されました。
「加納冨美子 福岡教育大名誉教授、創作舞踊。二日午前三時二十五分、心不全のため福岡県太宰府市の病院で死去。八十五歳。岐阜県安八郡輪之内町出身。告別式は三日正午から太宰府市連歌屋二の四の五の自宅で。」
加納富美子は、明治四十四年六月三日、輪之内町大薮六一四の一において、父加納興十郎、母むらの二女として生まれました。(現大薮在住の加納治氏の姉である)
大藪小、羽島高女(二期生)を経て私立東京女子体操音楽学校高等科(現東京女子体育大学)を昭和七年三月卒業し、引き続き同学校の講師として奉職。同十三年から東京跡見高等女学校教諭に就任。その後、中国に渡り満州の新京市錦ヶ丘高等女学校教諭となりました。
大戦終了後、大陸を引き揚げ、同二十二年愛知青年師範学校の教官となり、ついで 昭和二十四年から福岡第一師範学校の教官となりました。(福岡への転職は先輩からの誘いがあったといいます。)同年福岡学芸大学福岡分校講師、同二十六年助教授となり、同四十五年からは教授となりました。
同五十年、定年により退官。同年七月、福岡大学名誉教授の称号を授与されました。同五十年より福岡第一保育短期大学教授を十年間勤めました。また同三十八年には、西ドイツケルン大学に留学しました。
加納富美子の残した業績には、「体育関係学術用語について 表現と表示」などの学術論文の外に、創作舞踊の構成・演出・主演などを手がけ、主なものとして「日本列島その他」・「秋」三部作などがあります。
このパンフレットは、昭和四十四年福岡市の電気ホールにて創作舞踊公演「ひえつき」を開催した時のものです。「ひえつき」とは「稗つき節」という労働歌として伝わるもので 寿永四年(1185)壇ノ浦に敗れた平家の落人が椎葉村(福岡県)において細々と暮らした生活の様子を舞踊で表現したものであります。
この中で邦正美先生は「ただ幻想をおいかけて舞踊するということも一つの芸術行為である。
学問的に昔からある舞踊(芸術以前の舞踊)などをしらべ、それに関連する衣装や音楽や生活背景などを掘りさげ、それらの事実を土台として作家の幻想を働かせ、芸術としての作品をつくり上げることも舞踊行為である。加納冨美子のこの度の発表公演は舞踊を研究した結果の発表であるという点で意義がある」と研究の成果を賞賛しています。
また、「日本体育学会九州支部理事」「福岡県体操協会理事」「日本教育舞踊研究所福岡研究室室長」などの役職を歴任し、手腕をおおいに発揮しました。
加納冨美子は七十歳をすぎてからの留学の経験もあり、生涯をかけての学者でありました。
昭和六十二年、マンハイム・ゲーティンスチットウッドドイツ語GⅢを終了しました。
二十六年間奉職した福岡教育大学の菰口治学長は、加納冨美子の葬儀にあたり、次のような弔辞を述べました。
「先生は、福岡教育大学で二十六年間に亘って体育教育に専念ざれ本学の発展と充実を支えてこられたことは私どものよく知るところであり…学生の教育におきましても、先生の豊かな人間性ときめ細やかで行き届いた指導に育まれた教え子たちは、福岡県はもとより各県の教育界で有為な人材として活躍しています……先生は、学生の指導・研究には厳格な方でございましたが、日常生活では穏やかで 人の意見をよく聞かれる大変寛容な方でした・・・。」
加納冨美子は、いつも帽子をかぶり、背筋をピンと伸ばして、若々しい足取りでさっそうと学内を歩いていたと教え子は語っています。
この文を綴るにあたっては、加納冨美子の妹である加納和子女史及び冨美子の弟である加納治氏の全面的な協力をいただきました。
加納冨美子は、その生涯を体育教育に捧げた努力の人であったのです。
参考文献:郷土の輝く先人 下巻
場所 | 輪之内町大藪 |
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連絡先 | |
所有者 | |
製作年代 | 1991(明治44年)年6月3日~1992(平成4年)年4月2日 |
撮影日 | 2011年2月22日 | 経度 | 35.295497253418986 |
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調査年月日 | 2005年3月31日 | 緯度 | 136.65352553129196 |
水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から
川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため
様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。
輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。