ページの先頭です

関ヶ原合戦の死者を葬った北塚せきがはらかっせんのししゃをとむらったきたづか

北塚の石仏 1体は胴の所で欠落している

北塚の石仏 1体は胴の所で欠落している

北塚の石仏 1体は胴の所で欠落している
北塚の石仏 1体は胴の所で
北塚の全景 今は石壇の上に祀られている
北塚の全景 今は石壇の上に
いわれを書いた看板
いわれを書いた看板

対象物の特徴・来歴等

関ヶ原の合戦の死者を葬った北塚
(せきがはらのかっせんのししゃをとむらったきたづか)

 東大藪の北部、楡俣地内の田んぼの中に、一畝ほど、小高く土を盛り上げた塚があります。これが北塚です。
 土地の人の言伝えによると、関ヶ原合戦の時、このあたりで戦死した東・西両軍の死者をあわれんで、土地の人たちが、ここに埋葬して成仏を祈った塚だということです。

 慶長5年9月15日徳川家康(東軍)と豊臣秀頼(石田三成西軍)の天下分目の大合戦が関ヶ原を中心として行われました。
 美濃諸旧記(みのしょきゆうき)によると、福束城主丸毛兼利(まるもかねとし)は、東軍の福島正則(ふくしままさのり)の再三の誘(さそい)をしりぞけて西軍に味方し、その本拠である大垣城の先陣として、福束城に立てこもりました。8月16日、東軍の今尾城主市橋長勝(いちはしながかつ)・高須城主徳永法印寿昌(とくながほういんじゅしょう)等が加知川を渡って攻寄りましたので、丸毛兼利は、大垣城主伊藤彦兵衛・長松城主武光棟忠(たけみつむねただ)・其の他石田方の加勢三千余騎で、大藪村と大槫村との間に陣を取って、大槫川を隔(へだ)て、大いに意気をあげましたが、東軍の市橋長勝が家来に命じてひそかに川を渡って、十連坊村・楡俣村に火をかけて夜討をしかけたので遂に大敗し、福束城も落ちました。丸毛兼利も数多くの死者を捨てて、大垣城に逃げ込みました。

北塚に葬られた人たちは、この合戦の死者だといわれています。大藪の北部に在るので北塚といったのでしょうか。又北塚にちなんでかこの土地も地名を北塚といっています。お堂の仏様には、どなたが詣(まい)られるのかいるも新しい花と、お水が供えられています。遠い祖先の心を今に受け継がれる美しい誠心に感謝せずにはいられません。又関ヶ原合戦後約375年、郷土の祖先が無縁の霊の冥福(めいふく)を祈ったこの塚が、年毎に風雨に崩れていくのをなげかずにもいられません。

詳細情報

場所 輪之内町大薮字砂山107番地
連絡先

所有者
製作年代
撮影日 2011年2月22日  経度 35.297206979785734 
調査年月日 1985年5月1日  緯度 136.66560351848602 
プリントする

名称、住所から検索

  • 輪之内町
  • 輪之内商工会

輪中のまち輪之内町

水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から 川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため 様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。 輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。