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どこの橋どこのはし

対象物の特徴・来歴等

里の旧多良街道にある橋で、現在はコンクリートの橋になっている。1600年の関ヶ原合戦の時、福束城丸毛兼利は石田三成の西軍に味方して、大垣城の南のまもりをかためました。
東軍(今尾城主)と西軍が大榑川をはさんでにらみ合っていましたが、西軍が十連坊村他に火をはなって攻め立てたので
福束城が危うくなりました。その時楡俣の住人が西軍の丸毛氏を応援にこの橋まで来ました。ここで残念にも「福束城は落ちた」という報をうけました。そこで彼は「せっかく応援にここまで来たのに、落城とは残念だ。これからどうしたものだろう。どこへ行こうか」と思案しました。これを聞いた土地の人達がこの橋を「どこの橋」と呼ぶようになったといいます。

詳細情報

場所 輪之内町里
連絡先

TEL:
FAX:

所有者
製作年代
撮影日 2011年8月10日  経度 35.3030167 
調査年月日 2011年9月6日  緯度 136.6330742 
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  • 輪之内町
  • 輪之内商工会

輪中のまち輪之内町

水郷地帯の岐阜県輪之内町。
輪中に位置するこの町は、昔から 川の氾濫をくり返し、生命、家屋、農地等を奪いつつも、水害から身を守るため 様々な治水事業を行ってきました。
中でも宝暦年間に行われた治水事業は、輪之内町のの歴史上大変重要であり、今の輪之内を形づくっています。 輪之内町内には薩摩藩の功績をたたえた史跡や、水と戦ってきた数々の知恵が今も生きています。