かんこう輪之内

人物・民話

大石が沈んでいる龍古 おおいしがしずんでいるりゅうご

対象物の特徴・来歴等

 大吉新田和ノ割の堤防ぎわの一部に、龍古という字がありました。
 字龍古は、明治30年の揖斐川の大改修で、大部分が揖斐川の川床や堤敷に、わずかに残ったところも、昭和20年の耕地整理で和ノ割に併せられ、今では龍古と呼ぶところはない。大吉にも龍古という地名を知っている人は、もう少なくなった。
 昔、まだ揖斐川の本流が龍古のあたりを流れていたころ、天下の平定を計画した豊臣秀吉は、大阪城を築くために、諸大名に命じ、日本国中から、石垣を築く大石を集めました。
 豪将加藤清正は、美濃国赤坂に、すばらしく立派な大石を見つけた。これこそ日本一の大石と喜んで、揖斐川を下り、伊勢の海に出て、海上を大阪へ運ぶ計画を立てました。
 大筏を組んで大石を乗せ、幾百人の人夫で、川の両側を筏を引いて下らせました。龍古に住んでいた揖斐川のぬしである龍がこれを聞いて、「おれにことわりなしに川を使うとは無礼千万。ここは絶対に通さぬぞ。」と、かんかんに怒りました。筏が龍古にさしかかると、龍は大あばれし、水は逆立ち、筏は木の葉のようにゆれ、ついにひっくり返り、大石は川底に沈んでしまいました。
 これを見ていた幾百人の人夫たちはあまりのおそろしさに肝を冷やし、さすがの加藤清正も龍の勢いにしりごみし、あとの祟りをおそれて、沈んだ石をそのままにし、ふたたび赤坂から石を運ぶことも思いとどまりました。
 時代は移って徳川時代の末になると、揖斐川の川筋も変わり、龍古も開墾されて水田となりました。しかし夏の日照りが続くと、大石の沈んだといわれるあたりのイネは、根が大石にはばまれて下に張れないためか、葉が赤く枯れたということです。
 今でもこの大石は龍古に沈んでいることでしょう。

詳細情報

場所 輪之内町大吉新田
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所有者
製作年代
撮影日
調査年月日 2011年9月21日
経度 35.269588619456194
緯度 136.61312341690063
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