人物・民話
岐阜県俳壇の再興を図った 棚橋碌翁 ぎふけんはいだんのさいこうをはかった たなはしろくおう
対象物の特徴・来歴等
棚橋家は代々五郎右衛門と名乗り、楡俣村の庄屋役を勤める歴史の古い家柄で碌翁は棚橋家十二代目を継ぐとともに、岐阜県俳壇の中心となって活躍しました。
国学への思いも強くひたすら勉学に励み、神職も身につけ、墨俣、名森両神社の神主を勤めました。また幕末でもあり国の行く末を案じ国事へと傾いていきました。それを見かねた彦根藩の儒者渋谷鐵臣は「俳諧でのすばらしい力を国事に向けるのは残念」との便りを送り、ふたたび碌翁は俳諧にたち戻りました。ついに美濃派十七世宗匠となりました。次の句は、彼の代表作の一つです。
「暁の星や ごぼれて 梅の花」
宗匠となり、門弟の指導に情熱を注ぎ、芭蕉が東北を旅したように、弟子の几雪を連れ、越前を訪ねました。
碌翁の活躍から同十五年より特に獅子庵を名乗ることが認められました。
同十九年春、宗匠を本巣郡西郷村の田中白杲仙に譲り、第一線から退きましたが、情熱は衰えず岐阜県知事小崎利準と謀って毎月、俳諧の会合を妙照寺内不共庵において開いていました。月刊誌を発行し有栖宮を会長とする全国的な組織の「仮名会」となり、ますます発展しました。
これからという時に、濃尾大震災にあい、岐阜の住まいが焼けてからは、楡俣に戻り句作に励んでいました。
同二十九年七月二十三日の大洪水の最中、七十九歳の生涯を終えました。
また、碌翁は教育にも力を注ぎ、学区取締や中学教師として学校の設置や子供を学校へ行かせるために走りまわりました。
参考文献:「郷土の輝く先人」上巻
資料提供者・協力者(敬称略):棚橋 健二
国学への思いも強くひたすら勉学に励み、神職も身につけ、墨俣、名森両神社の神主を勤めました。また幕末でもあり国の行く末を案じ国事へと傾いていきました。それを見かねた彦根藩の儒者渋谷鐵臣は「俳諧でのすばらしい力を国事に向けるのは残念」との便りを送り、ふたたび碌翁は俳諧にたち戻りました。ついに美濃派十七世宗匠となりました。次の句は、彼の代表作の一つです。
「暁の星や ごぼれて 梅の花」
宗匠となり、門弟の指導に情熱を注ぎ、芭蕉が東北を旅したように、弟子の几雪を連れ、越前を訪ねました。
碌翁の活躍から同十五年より特に獅子庵を名乗ることが認められました。
同十九年春、宗匠を本巣郡西郷村の田中白杲仙に譲り、第一線から退きましたが、情熱は衰えず岐阜県知事小崎利準と謀って毎月、俳諧の会合を妙照寺内不共庵において開いていました。月刊誌を発行し有栖宮を会長とする全国的な組織の「仮名会」となり、ますます発展しました。
これからという時に、濃尾大震災にあい、岐阜の住まいが焼けてからは、楡俣に戻り句作に励んでいました。
同二十九年七月二十三日の大洪水の最中、七十九歳の生涯を終えました。
また、碌翁は教育にも力を注ぎ、学区取締や中学教師として学校の設置や子供を学校へ行かせるために走りまわりました。
参考文献:「郷土の輝く先人」上巻
資料提供者・協力者(敬称略):棚橋 健二
詳細情報
場所 | 輪之内町楡俣1359 |
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連絡先 | TEL: FAX: |
所有者 | |
製作年代 | 文政元年(1818) |
撮影日 | 2011年11月8日 |
調査年月日 | |
経度 | 35.2999426 |
緯度 | 136.6620377 |
現在地からルート確認
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