人物・民話
力もち勘右衛 ちからもちかんね
対象物の特徴・来歴等
力もち勘右衛(かんね)
むかし、楡俣新田に気はやさしいが、たいへんな力持ちがおりました。
勘右衛(かんね)という名で、まずしい百姓でしたが、何しろ力持ちなので、自分の家の仕事は早くすまし、たのまれた仕事に精を出していました。
春には、重い田打ち備中(びっちゅう)をかるがると振って、田を起こし、秋の取りいれともなれば、人の二倍、三倍の働きをして、近所の人たちからも、「かんねさ、かんねさ。」と親しまれておりました。
あるとき、勘右衛の力を見込んだ村の和尚(おしょう)さまが、
「かんねや、庭石を二つほどほしいのじゃが、どこぞに良い石はないじゃろか。」
とたのみました。
和尚さまからのたのみですから、勘右衛もはりきりました。
揖斐川をさかのぼり、谷汲まで足を運んで、あの石、この石と、ようやくかっこうのよい二つの石を見つけ出しました。
さて、これを運ぶのが大へんです。けれどそこは力持ちの勘右衛。二つの石に太いつなをかけ、
「よっこらしょ!」
と、その二つの石を肩に振り分けにして持ち帰りました。
和尚さまはもちろん、これを見た村のものたちは、その力の強さに目をむいておどろきました。その石は、楡俣新田の江翁寺(こうおうじ)に、今も残っています。こうして勘右衛の力持ちは、村中だけでなく、あたりのひょうばんになりました。
その頃は、お奉行さまが、方々にいて、村をおさめておりました。養老の多良に、水奉行で高木の殿さまといわれる方がおられました。
秋のとりいれとときです。
勘右衛が、ウマの背にたくさんのイネを積んで、田の道をとことこと帰りかけておりますと、むこうから、川見に出ておいでの水奉行高木の殿さまが来られました。田んぼの道はせまいので、すれちがうことはできません。勘右衛は、イネを積んだウマの足をひょいとつかんでかつぎあげ、殿さまの行列を通したのです。
殿さまは、目をパチクリさせて、勘右衛に、たくさんのほうびをくださいました。そして、田んぼの道に、人びとやウマがすれちがえるようにウマよけ場を三ヶ所もつくってくださったそうです。
勘右衛の力じまんの話はまだまだあります。
ある年のこと。
勘右衛は、庄屋さんによばれて、ご城米(じょうまい)を江戸に運ぶようにたのまれました。
米倉には、よく選ばれた大粒の米が、とくべつに編(あ)まれた美しい俵(たわら)にずっしりつめられています。
これを、福束の渡し場から桑名へ運び、桑名からはもうひとつ大きな船につめかえられて江戸へ運ぶのです。道のりは、百六十里(約六百四十キロメートル)もある大仕事です。
勘右衛は、その大仕事をなんなくやりとげました。
無事に仕事を終えた勘右衛たちは、江戸の相撲(すもう)を見物しました。
力士たちは、みなりっぱなからだつきをして、とても力が強そうです。勝負は、一番、一番力が入って、見物の人たちは、やんやの声援です。そのうずの中で、勘右衛は、からだがむずむずしてきました。そしてとうとう、
「わいにもひとつ、とらせてくれんかのう。」
と、さけんでしまったのです。
みょうな見物人があらわれたので、土俵をとりしきる人たちは、ひたいをあつめて相談していましたが、
「まあ、おもしろかろう、この田舎ものの鼻っぱしらを折ってくれよう。」
と相談がまとまり、勘右衛にまわしをまいてやって、土俵に呼びあげました。
するとどうでしょう、勘右衛の強いこと、強いこと、出てくる力士たちを、かたっぱしから投げとばします。見物人たちは、また、やんやの大よろこびでした。
これでおさまらぬのは、江戸の力士衆。けれど江戸に出てきたのは、ご城米を運ぶ役目を持っていた勘右衛ですから、江戸から離れたところで仇(かたき)をうとうと後をつけ、とうとう楡俣新田にある勘右衛の家までやってきました。
勘右衛の家には、年をとったおっかさんがいました。大きなマツの木の下で、ちょうど野天風呂(のてんぶろ)をわかしていて、勘右衛はまだ、家に帰りついておりませんでした。
人のよいおっかさんは、遠くからの客だからと、二人の力士をねぎらいながら、
「遠い道のり、さぞおつかれでございましょう。勘右衛もおっつけ帰りましょうに、ま、ま、お風呂にでも入って、旅のあかでも落としてくだされ。」
とすすめました。
江戸の力士も、つい人のよいおっかさんのすすめにのって、風呂に入れてもらいました。
二人めの力士が風呂の湯につかっているときです。すごい雷(かみなり)が鳴って、滝のような、にわか雨がやってきました。
するとおっかさんは、
「どうぞ、そのまま、そのまま・・・・・・・」
と、風呂の中の力士に言って、力士の入った風呂桶(おけ)を、ひょいと抱え、のっしのっしと軒下の雨のかからぬところまで運んできました。
二人の力士がおどろいたのなんの。
「こりゃあ、勘右衛が帰って来ぬ間に逃げ出そう。とても勝目はないわい」と、ほうほうのていで逃げ帰ったそうです。
勘右衛が持ち帰った石が保管されています、江翁寺は輪中文化財(信仰)で紹介してます。
むかし、楡俣新田に気はやさしいが、たいへんな力持ちがおりました。
勘右衛(かんね)という名で、まずしい百姓でしたが、何しろ力持ちなので、自分の家の仕事は早くすまし、たのまれた仕事に精を出していました。
春には、重い田打ち備中(びっちゅう)をかるがると振って、田を起こし、秋の取りいれともなれば、人の二倍、三倍の働きをして、近所の人たちからも、「かんねさ、かんねさ。」と親しまれておりました。
あるとき、勘右衛の力を見込んだ村の和尚(おしょう)さまが、
「かんねや、庭石を二つほどほしいのじゃが、どこぞに良い石はないじゃろか。」
とたのみました。
和尚さまからのたのみですから、勘右衛もはりきりました。
揖斐川をさかのぼり、谷汲まで足を運んで、あの石、この石と、ようやくかっこうのよい二つの石を見つけ出しました。
さて、これを運ぶのが大へんです。けれどそこは力持ちの勘右衛。二つの石に太いつなをかけ、
「よっこらしょ!」
と、その二つの石を肩に振り分けにして持ち帰りました。
和尚さまはもちろん、これを見た村のものたちは、その力の強さに目をむいておどろきました。その石は、楡俣新田の江翁寺(こうおうじ)に、今も残っています。こうして勘右衛の力持ちは、村中だけでなく、あたりのひょうばんになりました。
その頃は、お奉行さまが、方々にいて、村をおさめておりました。養老の多良に、水奉行で高木の殿さまといわれる方がおられました。
秋のとりいれとときです。
勘右衛が、ウマの背にたくさんのイネを積んで、田の道をとことこと帰りかけておりますと、むこうから、川見に出ておいでの水奉行高木の殿さまが来られました。田んぼの道はせまいので、すれちがうことはできません。勘右衛は、イネを積んだウマの足をひょいとつかんでかつぎあげ、殿さまの行列を通したのです。
殿さまは、目をパチクリさせて、勘右衛に、たくさんのほうびをくださいました。そして、田んぼの道に、人びとやウマがすれちがえるようにウマよけ場を三ヶ所もつくってくださったそうです。
勘右衛の力じまんの話はまだまだあります。
ある年のこと。
勘右衛は、庄屋さんによばれて、ご城米(じょうまい)を江戸に運ぶようにたのまれました。
米倉には、よく選ばれた大粒の米が、とくべつに編(あ)まれた美しい俵(たわら)にずっしりつめられています。
これを、福束の渡し場から桑名へ運び、桑名からはもうひとつ大きな船につめかえられて江戸へ運ぶのです。道のりは、百六十里(約六百四十キロメートル)もある大仕事です。
勘右衛は、その大仕事をなんなくやりとげました。
無事に仕事を終えた勘右衛たちは、江戸の相撲(すもう)を見物しました。
力士たちは、みなりっぱなからだつきをして、とても力が強そうです。勝負は、一番、一番力が入って、見物の人たちは、やんやの声援です。そのうずの中で、勘右衛は、からだがむずむずしてきました。そしてとうとう、
「わいにもひとつ、とらせてくれんかのう。」
と、さけんでしまったのです。
みょうな見物人があらわれたので、土俵をとりしきる人たちは、ひたいをあつめて相談していましたが、
「まあ、おもしろかろう、この田舎ものの鼻っぱしらを折ってくれよう。」
と相談がまとまり、勘右衛にまわしをまいてやって、土俵に呼びあげました。
するとどうでしょう、勘右衛の強いこと、強いこと、出てくる力士たちを、かたっぱしから投げとばします。見物人たちは、また、やんやの大よろこびでした。
これでおさまらぬのは、江戸の力士衆。けれど江戸に出てきたのは、ご城米を運ぶ役目を持っていた勘右衛ですから、江戸から離れたところで仇(かたき)をうとうと後をつけ、とうとう楡俣新田にある勘右衛の家までやってきました。
勘右衛の家には、年をとったおっかさんがいました。大きなマツの木の下で、ちょうど野天風呂(のてんぶろ)をわかしていて、勘右衛はまだ、家に帰りついておりませんでした。
人のよいおっかさんは、遠くからの客だからと、二人の力士をねぎらいながら、
「遠い道のり、さぞおつかれでございましょう。勘右衛もおっつけ帰りましょうに、ま、ま、お風呂にでも入って、旅のあかでも落としてくだされ。」
とすすめました。
江戸の力士も、つい人のよいおっかさんのすすめにのって、風呂に入れてもらいました。
二人めの力士が風呂の湯につかっているときです。すごい雷(かみなり)が鳴って、滝のような、にわか雨がやってきました。
するとおっかさんは、
「どうぞ、そのまま、そのまま・・・・・・・」
と、風呂の中の力士に言って、力士の入った風呂桶(おけ)を、ひょいと抱え、のっしのっしと軒下の雨のかからぬところまで運んできました。
二人の力士がおどろいたのなんの。
「こりゃあ、勘右衛が帰って来ぬ間に逃げ出そう。とても勝目はないわい」と、ほうほうのていで逃げ帰ったそうです。
勘右衛が持ち帰った石が保管されています、江翁寺は輪中文化財(信仰)で紹介してます。
詳細情報
場所 | 楡俣新田 |
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連絡先 | |
所有者 | |
製作年代 | |
撮影日 | 2012年3月31日 |
調査年月日 | 1985年5月1日 |
経度 | 35.29829277957025 |
緯度 | 136.6488128900528 |
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